2010年4月4日
博多駅前のスターバックス
天気予報がまたはずれ、太陽が雲のない空の中心に浮いている。ライブが始まるまで約四時間ある。せっかく天気がいいから、僕は珍しく外のテーブルに座っている。左手には店の入り口がある。誰かが店に入る、または出る度に、必ず目が合う。二週間くらい前のトイレ警備が思い起こされる。右の方から博多駅前の風景が広がってくる。道の反対側のターミナルからバスが蟻のようにがぞろぞろ出てくる。その中にはスピーカーが何個もついている右翼のバスが一台。それはまるで蟻の行列の真ん中に蜂がいるように目立った。
店の中には、美人が一人いる。実際、彼女は美人なのか、僕にはまだはっきり分からない。とにかく横顔が美しい。想像力を掻き立てるような横顔だ。僕は彼女に興味を持っているけれど、なんとなくこのままがいいと思いはじめる。彼女はぴったりした黒いスーツを着て、小さい鞄から取り出した書類をぱらぱらと目を通す。これによって、彼女は就活中なのだろうと僕は想定する。彼女は深いために息をつき、ぼーっと窓のそとを眺める。僕は彼女と話してみたい。彼女の悩みを聞いてみたい。きっと、僕は彼女を幸せに出来る。彼女は店に入る前に僕たちは他の客と同じように目が合った。彼女は僕のことに気づいたはずだ。彼女は僕のことを意識しているはずだ。
聴いたことがない曲がiTunesから流れ始めて、僕の彼女に対する妄想に激しく邪魔してくる。僕にはまだはっきりした感情がないその曲を聴きながら、リズミカルなバスの流れが次々に通り過ぎていく。僕にとって何だか面白い組み合わせだ。今度は5年間も聞いていない曲が耳に入る。最初の一秒目に、昔使っていたプラスチックのヘッドフォンと兄と平等に分けた寝室が真っ先に脳裏に浮かんでくる。僕は福岡の軽い風に吹かれ、シアトルの光景が見えてくる。
ここは案外国際的なところだ。韓国人と中国人に結構人気のある観光地みたいだ。十人が通りかかる内に、一人くらいは外国人だ。それから、たまにこうして白人も通りかかる。彼はまさに僕の嫌いなタイプの外国人だ。足取りには一片の自慢が入っていて、3歩を踏み出す度に想像の聴衆を見渡す。彼を見ているのは、うんざりしている僕だけだ。
僕はここに来て、非常に興味深い現象に気づいた。福岡では、美人と不細工な女性しかハイヒールを履かないということだ。その内に不細工の子が圧倒的に多い。可愛くはあるがやはり美人だと言い切れない子が数えられないくらい通り過ぎていくものの、みんなブーツ、あるいはスニーカーを履いている。10点満点の5点から8点までの女性の中では、ハイヒールを履いている人はいない。僕にだけは知らない理由があるのだろうか。
老けたくない。年寄りが通り過ぎる度につくづく思う。前かがみになったり、周りの人から無視されたらり、驚くくらい大きい声で独り言を言ったり、いくら踏み出していても前に進めなさそうな小さな歩を一歩一歩踏み出したり。いかにも死んでいるということだ。死ぬ時に本人がなるべく衝撃を受けないように神様が人間にこの淀み方を与えたのか。だとしたら、神様は優しいか、酷いか、僕は決められない。
二時だ。近くのテーブルに座ったサラリーマンが去っていってから、僕の近くには誰も座らない。という文を書き終えたところで、一人の男性が座ってきた。優しそうな人だ。
「すみません」
彼は僕の方に向き直って、びっくりしたような顔をした。
「少し荷物を見張ってもらっていいですか?」
「大丈夫です」
僕は立ち上がって、トイレに向かった。大丈夫です。彼の言葉が耳に入ってくると、僕は二年前の元彼女のことを思い出す。彼女の家に行ったのは初めてだった。お母さんが色々と美味しいものを作ってくれた。食べ終わったら、彼女がトイレに行って、残された僕はお母さんと二人っきりになってしまった。少し気まずい雰囲気になって、お母さんは「もう少し食べますか?」と僕に聞いてきた。大丈夫です、と僕は答えた。
この場合だと、大丈夫です、という曖昧な返事は結局答えにならない。日本に来たばっかりだったあの時の僕は、もちろんそれを分かる訳がなかった。
もう少し食べる?とお母さんは再び聞いた。
はい、大丈夫です。と混乱した僕は再び答えた。
お母さんはそわそわし始めて、僕から視線をそらせてトイレの方を向いた。
何が起きているんだろう、と僕は英語で思った。
あの、もう少し食べてみる??
はい。食べます。
少し荷物を見守ってもらっていいですか?
大丈夫です。
今彼は僕のものを盗んでいるのかな。今彼女は何をしているのかな。トイレの前に立った僕の考え事。席に戻ったら、荷物は全て僕が残したままで、彼は携帯で話していた。僕は頭を下げて謝意を表し、腰を掛けて、しばらく元彼女のことを考え続いていた。
吏紗。今まで出会った人の中で、最も頭のいい。非常に話が面白い女性だったし、顔もかなり美しかった。と、吏紗について尋ねる当時の元彼女に言ってしまうと、爆発的に怒られた。そして、元気?という軽い挨拶のメールが二ヶ月ぶりに吏紗から来ると、当時の彼女に「もうメールを送らなくて良いから」という返事を送らされた。あれ以来僕は吏紗と音信不通。彼女はどこで、何をしているのだろう。たまに「ごめんなさい、本当はあのメールを送りたくなかったのだ。あなたは本当にすごい人だと今も思っている。傷付けてしまって本当にごめんなさい」というメールを送りたくなる。しかし、僕はそのメールを送ることができない。何故なら、彼女の悪意に値することをしてしまったからだ。
僕はお茶を飲み干し、紙カップをゴミ箱に捨てた。