2010年9月5日
ルイ・アームストロングの純粋で朗らかな声を聴きつつ、僕は穏やかなスターバックスの店内を見渡す。
僕はかなりの個人主義者である。笑い声が鳴り響く賑やかなスターバックスより、誰もいないスターバックスの方がよほど好きだ。何故かというと、平静な喫茶店の雰囲気は、僕の頭を自然と働かせてくれるからだ。朝の人気のないスターバックスは、僕の想像力を豊かにしてくれるのだ。
こういったスターバックスは、朝9時から10時まで、それと夜9時から10時までの間にしか存在しない。この放物線のような時間帯は、僕にとって少々厳しいことである。何しろ、豊後大野市にはスターバックスはおろか、喫茶店というものすらないからだ。その結果として、想像力を引き出してくれる喫茶店の空気を吸うために、週末を全てスターバックスに捧げるほかない。金曜日に全く遊ばずに布団に入る。翌朝早めに起床し、バイクに乗ってスターバックスに向かう。想像のために、僕は毎週こうしている。
これだ。僕はそう囁いて心から満足しつつ、端っこのテーブルから有機の色彩の店内を見渡す。見渡して、自ずと喫茶店というものの単純さに夢中になる。深緑の安楽椅子。天井から射してくる橙色のガラスランプの光。小説を読み耽った年寄りのカップル。肺を満たしていく苦いコーヒーの芳しさ。重なり合う目に映る全ての物たちを一段と美しく彩るブライアン・ウィルソンの歌声。あまりの麗しさに、想像が自然と研ぎ澄まされていく。この世の幸せの極みは早朝のスターバックスにあるに違いない。
小さくて白い紙カップが乗っているトレーを持って、店内を回る店員。大学生ぽい曲線美の彼女がスターバックスの制服を着ると映える。しかし何が何でもザ・ビートルズの「Let it Be」を最後まで聴き終えたい僕は、しばらく彼女が近づいてこないように目を閉じて祈る。ところが、目を瞑った瞬間に、僕はもはやスターバックスのお姉さんに負けていた。彼女に促されるまま、僕の想像が最も情けない方向に向かっていく。今日のサンプルはなんだろう。もう一杯のコーヒーならまだしも、クレーム・ブリュレ・マキアートなんて持ってこなくたっていい。店員がいくら魅力的な女性であっても、いくら肌がつやつやしていても、僕は決してクレーム・ブリュレ・マキアートごときを口にしない。実際のところ、既に彼女の優雅な足取りに夢中になっていた僕は、こういった味にやかましい思いを巡らす余裕がなかったのだ。
長谷川ひとみと思しき女性はしなやか指で紙カップを下ろしつつ、試してみますか?と澄んだ声で僕に聞く。音声に意表を突かれた僕は、適当な返事が見つからない。彼女は丁寧にビバレッジを説明してくれる。本日のサンプルはやはり、ザ・ビートルズとのシンクロを妨げてまで、飲む価値のある飲み物ではない。彼女の説明を聞いているうちに、いつの間にかイヤホンのコードに絡み付かれた僕は、赤面の至りだった。名誉を回復するための道は一つしかない。
信念に逆らいつつ、僕はクレーム・ブリュレ・マキアートを一口啜ってみる。そして無理矢理に微笑を浮かべて、長谷川さんを見上げる。
あ、美味しいですね。
彼女はニコニコと微笑み、今日から販売ですのでと言ったまま、僕のプライドとともにレジの方に去ってしまう。僕は何だか悪魔と浮気をしてしまったような気分になり、再びイヤホンを耳に入れる。ところが、さっきまで見ていた鮮やかな想像の世界が甦ってこない。今日はもうだめだ。10時を過ぎているのだ。
長谷川さん、それとも、クレーム・ブリュレ・マキアート。どっち。結局僕の想像を奪ったのは、どっち。未解決のまま、全て想像から生まれた日記を書き終えることにする。そして机から立ち上がって、スターバックスに行くための準備をし始める。あとはご想像にお任せします。